人の「真んなか」にあるものとは?

RYT200の時間の中で、ヨガの教典である「ヨーガスートラ」に書かれている1節を選び、自分の実体験と合わせて自分なりの解釈を皆の前で述べる、という課題があった。今思い返すと、この課題が自分自身としっかりと向き合うきっかけを与えてくれ、とても根気のいる作業ではあったが、最終的には私に一つの大きな気づきを残してくれたように思う。

それは、何者でもない「わたしはわたしである」ということ。その「わたし」の中心・核となっているものは、純粋な”喜び”という気持ちで作られているということだった。この真実に気がつけた経緯を、その課題であるレポートから一部抜粋して、紹介します。


自分の心の中を表に出すような感覚で何だか恥ずかしくもあるますが……、このことに気が付けたことは私にとっては何にも代え難い体験であり、誰かの心の動きに対するヒントになってくれたらうれしいです。

※ちなみに、この節の本来の解釈は「瞑想」について述べています。あくまで、私の解釈です!

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「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」 第1章(32節)

一つの対象に集中して修練を行う【あるいは、一つの技術を用いる】ことが、障害とその随伴症状を防ぐ最良の方法である。


自分でもはっきりとわかるほど、私には何事においても「行動よりもまず先に、その目的や先にある未来のことを心配する」という思考の癖がある。目的をもって行動を起こすことは決して悪いことではなく、物事をポジティブに捉えられる時はよいのだが、大抵はまだ見ぬ未来への不安の種となることが多い。このことが長年、私の中での“障害”となっていることに気が付き、その障害を防ぐ方法としてここ数年で感じていることがある為、この節を選んだ。


こうした考え方の癖というものは、誰にでも少なからずあるものだと思うが、自分自身を振り返ってみると、やはり双子の姉の存在がとても大きく影響しているように感じている。幼い頃から常に同じもの、同じ環境で育ち、隣にはいつも「もう一人の自分」がいるような存在であり、気が付くと常に「もう一人の自分」と比較しているわたしがいた。相手との違いを探し、その違いが得られる行動を率先的にしていたように思う。こうした習慣はやがて、「その先に何か確固たる目的や結果が想像できなければ(不安が残るようなら)、やる意味がない」といった思考の癖を生みだし、さらには常に“比較”という随伴症状が付きまとうことになった。


スートラの解釈に戻ると、「障害とその随伴症状を防ぐ最良の方法」として「一つの対象に集中して修練を行う【あるいは、一つの技術を用いる】こと」とある。

日常に追われていると、何をするにも気が散漫としていることが多く、一つのことに集中して何かを行うことが少ない。その中で、結果やその先にあることについては何も考えず、今、目の前にあることだけに気持ちを向けられる瞬間がある。その一つがここ数年、趣味で行っている山歩きであり、まさに“歩く”という行為と向き合う時間となっている。


私が山歩きを始めた頃は、友人や家族と歩くことが多く、当然のように山頂を踏むことや壮大な景色を眺めることを目的として訪れることが多かった。山に次第に慣れていくと、次は一人で歩く機会が少しずつ増えていった。その過程で、複数人で行く時にはあまり感じることがなかったものを感じるようになっていった。初めて一人で山の中へ入った時は、何よりまず先に誰もいない環境への怖さを感じていたが、静まり返った森の中で、ただ一人「歩く」ことだけに集中していると、不思議と気持ちが落ち着いていった。落ち葉を踏む音、土や植物の香り、森を抜ける風の感触などが全身で感じとれ、また大きな木が揺れる姿を目にしては、自然に対する畏れのようなものを想像した。意識をしていなくとも、“今”という時間を心から味わっている自分がそこにはいた。それは、例え、その先にすばらしい景色が待ち受けていなくとも、「歩く」という行為を通して今を楽しんでいる自分の姿であり、そのことに驚いた。一歩一歩あゆみ進めることへの純粋な喜びに加え、確かな目的がなくても「歩く」意味を見出せたことへの安堵感がそこには生まれていた。


また、山という特殊な環境でなくとも日常で同じような感覚になるものがあるのか、改めて考えてみた。それはヨガを通してこれまで私が漠然と感じていたものであり、特に現在受講しているRYT200の時間ではそれを強く感じている。アーサナリサーチは“アーサナ”と向き合う時間であるが、まず知識を得て、考え、体験していくことで少しずつ理解が深まっていくことを既に実感している。しかし、この過程で、自分のできないことばかりに目が向いてしまうことが多々あった。アーサナを正しくとることが目的となり、できないことばかりを考えだすと、その渦からなかなか抜け出せなくなっていた。しかし、ある時に「今できないことは仕方がない。諦めではなく、今できることを精一杯やるしかない。それしか今の私にはできない」と考えるようになり、気持ちがとても楽になったことを覚えている。現在は、この意識に集中することで、自分の中にある純粋にヨガをすることへの喜びに触れることができている。


このように、私にとって山歩きは「歩く」ことを介して“今”に、ヨガは「アーサナ」を介して“今”に集中させてくれている。それは、スートラが示す「一つの対象」であり、その“今”に集中して修練を行うことが、私が長年持ち続けてきた考え方の癖やそれに伴う不安や比較といった「障害」を取り除くための最良の方法だと感じている。もちろん、日々、山歩きやヨガをすることは不可能ではあるが、定期的にそれらを行うことでその感覚を再確認し、障害が生まれるのを防ぐ状態を維持し続けているように思う。


そして、改めてその「障害」が取り除かれた先にあるものが、唯一自分だけが心の奥底にもつ“純粋なもの”、すなわち自然と湧き出てくる喜びのようなものであるということに気がついた。それは山歩きやヨガを通じて漠然と感じ取っていたものの正体であり、自分の中心から湧き出てくるこの本質的な部分は、いくら周りのモノや環境、人、自身の体などが変化しようとも変わらずあり続けるものであり、その真実が誰と比べることなく今は「わたしをわたし」でいさせてくれている。



Glänta/グレンタ

まちの小さな集会所

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