梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、インドの6派正統哲学の1つ「ヴェーダーンタ学派」の中心となる思想です。現在、時々、受講しているオンラインヨガ哲学講座で取り上げられていたもので、話を聴きながらも頭では理解したつもりでも、正直、これがなかなかむずかしい。
まず、言葉の意味を説明すると、
「梵」…宇宙全体の根本原理(ブラフマンという)
「我」…自分自身の本質(アートマンという)
「一如」…一つである、という意味
➡要するに、「宇宙全体の本質と自分の本質は同一である」ということ
え?なんのこと??と、聴いていても全く理解できません。
ブラフマンは特定の形ももたなければ、言葉で表現することもできません。ただ、その特徴を言葉で表すとすれば、「存在・真実・意識・知性・至福・喜び」といったものらしい。私たちが、こうしたブラフマンの特徴(本質)に近づいていくと、とても幸せを感じるのだと。ふむふむ、少しはわかる。
一方で、アートマンは、これまでのヨガの学びの中でも散々登場し、自分なりに理解を深めてきたので何となくはわかる。ヨガでは、自分(本質、真我)と自分以外のもの(物質)を切り離すことで、自身の本質であるアートマンへの気づきを得ようとする。ここでいう「物質」とは、名前・役職・身体・気・心などを指している。一見、まるでそれらは自分そのものであるかのように思われるけれど、本当の自分はこうした物質の中には存在しないという。
例えば、役職などの社会的立場により、自分はこうあるべきだという概念にとらわれすぎていることもある。役職という殻を脱いだ先にあるものが本来の自分であるのだから、固定概念に縛られる必要はないのに。また、身体はあくまで器にすぎず、老いを理由に引っ込み思案になる必要はなく、歳を重ねても常にわくわくしている人もおり、身体が老いてもその本質は老いることはない。そして、1番勘違いをしやすいのが人の「心」だ。心や感情は常に移り変わるものであるのに、その都度、「これが私そのものだ」と思い込んでしまう。特にネガティブな感情に振り回され執着してしまい、悩みの種となるのだという。その執着はいったん手放し、その考えは変えることができるのだと気づくと、様々な色メガネがはずれ可能性が見えてくる。
「梵我一如」とは、こうした思い込みをはずし、自分の中の本質(アートマン)が梵であるブラフマンに近づいていくこと、いや、そもそも同じものであるのだからその境目がなくなることなのだと思った。
これを壺に例えたものがある。
・壺、コップ、茶碗、それぞれ姿形は違えど、それらはすべて土からできている。
・壊れたらまた大地の土に戻る。
・常に本質は土である。
➡コップも本質である土に戻ると、さらに可能性が広がる。人も”私はこうだ”と定義してしまうと狭まってしまうが、それを外すことができると広がる。
なるほど、理屈ではよくわかる。しかし、どうも感覚的にわからなかった。どんな時にそうした梵我の一体感が生まれるのか。そこで、先生のひと言で腑に落ちた。
ヨガのレッスンでは、最後に必ず行うシャヴァーサナという時間がある。その日、レッスンを受けた人たち全員でマットに仰向けになり、”なにもしない”状態をつくっていく。単純に身体をリラックスさせ休ませている から気持ちがいいのだけれど、時々、ふと不思議な感覚になることがある。歳も性別も職業も何もかも異なる者同士であるのに、この瞬間だけに感じられる安らぎ、一体感を感じることができるのだ。そのひと時が何とも心地いい。先生は、それがまさに梵我一如だという。
それなら、山歩きの時にも感じるあの感覚も同じだ。つい先日の話しでは、山を流れる湧き水の小川に手をつけた時、これまでにも木々の葉を見上げて風を全身で受けた時、山頂にたち小さな自分を雄大な山々が取り囲んだ時などいくつもある。常にそこには全体の一員、自然の一部となった自分がいてそれが心地よく、山歩きを続けている理由の一つでもある。
きっとこの他にも「梵我一如」を感じとれる瞬間はたくさんあるはずだ。自分とそれ以外のものとのつながりに目を向けて、私はその共同体の一部なのだという感覚を大切にしていきたいと思った。
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