久しぶりにヨガ哲学について。
ヨガにも様々な流派があるけれど、なるほどなと感じたものの一つが「カルマヨガ」でした。カルマときくと、運命やスピリチュアル的なものの印象がありますが、ヨガでいうカルマとは、私たちの「行為」そしてその行為の結果から生まれた「業」のことをさします。
カルマというのは、今世に限ったものではなく、前世でもっていたカルマ(業)をそのまま持って私たちは生まれてくるといいます。たくさんのカルマが入ったサヤを携えながら生まれ、その中に「ダルマ」といわれる自分の天命、役割のようなものが存在するのですが、日頃は次々と加わるカルマによってそれが隠れてしまっていることもあるとか。本来、そのダルマを達成するために私たちは身体をあてがわれているわけです。
書いていると一体なんのことをいっているのか??となりますが、改めて、カルマヨガとは決して奉仕のヨガではありません。よい行いをするヨガでもない。
その行為自体の良い悪いではなく、今、目の前で行っている行為に対して、その行為の結果としての評価や価値を期待することなく、その行為をおこなうということを大切にしています。褒められたいから○○をする、いい人と思われたいから○○するというものではありません。
例えば、インドでは貧しい人達に無償でごはんを提供したり、ヨガ修行僧は集団生活の中で掃除、料理、洗濯などをカルマヨガとして行うといいます。もちろんそこには、何の見返りも求めずに。では、私たちの生活では?と考えると、一番真っ先に思い浮かぶのは毎日の家事でした。
また、ごはん作らなきゃならない
誰もおいしいの一言も感謝の言葉もない
トイレ掃除しても当たり前
誰がこの家をきれいにたもっているんだ~!
とこんな風に考えることが普通にあります…。これは完全にその行為に対する見返り、評価を求めてしまっているから。理想は、ごはんを喜んで食べてくれる人のことを想像して(例えおいしいの言葉がなくても)料理をすること自体がたのしく、掃除も誰かのためというわけでもなく、きれいになると気が付いたら自分自身も気持ちよくなっていたということもあります。
なにも大それたことをしなければならないのではなく、日々のなかで、「今、自分にとってできることはなにか?」を考え、あとはそのことに集中する。その行為の結果はコントロールできなくとも、その結果に対する”執着”は手放すことができるわけです。
余計な想像(期待)が頭をよぎったら手放す、というとてもシンプルなこと。とはいっても、すぐにこうした考え方ができるものではないので、まずは気が付くことが大切だなと。
カルマヨガがうまくいくと、サヤの中にたまっていたカルマが次々と消えていき、やがて見えなくなっていたダルマ(役割)がみえてくるかもしれない。そうなったらラッキーと思うことにしよう。
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※追記(2025/5/20)
日々の生活の中で、「この時間は私にとってのカルマヨガとして行おう」と決めてみるのもよいかもしれない。何をするかは特に重要ではなく、その時にどのような気持ちで行うかが大切だということも忘れずに。例えば、ごはんを食べる時間。そこに価値観の合わない人がいたとしても相手を批判するような言葉は使わず、できる限りサットヴァな気持ちで食べることを実行する。それをカルマヨガとして行うと決めてみる。以下、ヨガやアーユルヴェーダで言われる3つの質ごとに、どう変化するのかを考えてみた。
<3種類の質>
サットヴァ(純粋):結果にとらわれない、行為自体を楽しむ
相手の発する言葉に一喜一憂することは仕方がなく、そのことに気が付ければいいだけ。その後、「ごはんを食べる」ことを味わい、楽しめることが大切。
ラジャス(激質):結果を動機とする、激情を呼ぶ
自分が期待する対応でないことに腹を立て、相手の発する言葉にいちいち反応し、批評し、言葉で反抗する。怒りに溢れ、結果としてごはんそのものを楽しむ余裕もなくなる。周りの人も不快に。
タマス(鈍質):妄見に囚われる、怠慢怠惰
根拠もなくあれこれと想像し、例え現実に起きていないことでもまるで事実であるかのように考え、相手を否定する。また、スマホやTVを見ながらの食事もこれに当てはまるのかもしれない。大事な体をつくる「食事」という行為にはしっかりと味わって食べたい。
何も食事に限ったことではなく、ヨガをするとき、人と話をする時など何でもいい。その行為をする時に、今の自分がどんな質をもって行っているのか?を意識して考えてみることが、カルマヨガへの一歩かもしれない。
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